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現場に集まる報道陣

 10年前の今日、2010年5月19日は当時バンコクで反政府運動を巻き起こしていた団体、通称「赤シャツ」が治安部隊の陸軍に制圧された日です。以下は、newsclipスタッフが続けていた当時のブログのアーカイブから、当日の取材の部分を抜粋したものです。

「無駄な抵抗」、ただ後退するのみの赤シャツ

 陸軍部隊がシーロム交差点のバリケードを破壊、前進を始めた。赤シャツはすでにラーチャダムリ通りを数百メートル後退、サーラシン通りとの三差路に100人程度が潜んでいるのみ。スリングショット、いわゆるパチンコによる石ころ、爆竹、かんしゃく玉を飛ばすだけだったが、それさえも数百メートル先の兵士たちのはるか手前に落ちていく。ロケット花火を飛ばす道具も持ち合わせていたが、それも兵士たちに届く頃には、単なる花火の燃えかすでしかない。

 オフィスに置きっぱなしで、ヘルメットがない。寝坊してオフィスに寄る時間がなかったので、何も被っていない。ルムピニー公園前のテントに寝泊まりしていた初老のオヤジからもらったヘルメット。テントはあっけなく、陸軍に蹴散らされた。「最後まで戦うさ」と言っていたのに、赤シャツ最後の日の今日、オヤジの姿はない。直前でずらかったのだろう、正しい行動だ。実銃を持った兵士に敵うわけがない。最後までおちょくってギリギリまで引き寄せ、最後の最後で尻尾巻いて逃げれば良いのだ。

 仕方なく、その辺に転がっている工事用の黄色いヘルメットを拾う。サイズを調整するプラスチックが外れていて、直そうにもなかなか直らない。隣にいた赤シャツのじいさん、見るに見かねておもむろに取り上げ、器用な手さばきで直してくれ、30秒で立派に被れるようになった。ヘルメットは黄色、シャツは赤、もう目立ちまくり。

 バリケードを乗り越えた陸軍と数百メートル後退した赤シャツとの間でしばらく、小康状態が続く。陸軍が発砲を始めたのは10時半ぐらいだろうか。一気に銃声が鳴り響き、赤シャツの若い連中が、爆竹やかんしゃく玉で対抗する。
「もう止めろ、無駄だ」。
年配のメンバーが若者を諭した。

 赤シャツは自分たちが寝泊まりしていたテントに隠れながら態勢を立ち直そうとするが、陸軍の発砲はシーロム交差点からのみならず、真横のルムピニー公園からも始まった。かんしゃく玉と花火しか持ち合わせていない赤シャツがまともに対抗できるわけはない。一挙に混乱に陥り、みんな地面に這いつくばって逃げまとう。地面に伏せながらルムピニー公園を見ると、何人もの兵士が木陰を移動しながら撃ち込んでくる。銃口が火花を放つのが見えるから、伏せたまま頭を上げられない。「弾に当たったら死ぬかな、頭に当たったら死ぬだろうな」と、そんなことを考える。

 後日、連れ合い(女房)の同級生である海軍特殊部隊の隊長にその話をしていたら、
「ルムピニー公園に展開していたのは部隊だ。お前に銃を向けたのはオレの部下だな」
と笑いながら答えていた。こちらにとっては笑い事ではない。陸軍だけだと思っていたが、海軍も混じっていたらしい。

 後退して体勢を整えたころ、赤シャツの50メートル前方に黒服を着た怪しい奴が2人出現。軍用武器の使用でうわさになった「黒服」だ。手には大きな爆発物。彼らがそれを兵士たちに投げ付けたら、えらい派手な火花を散らして爆発した。
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飛んでくる実弾に伏せる赤シャツ

数メートル後ろ、被弾して倒れたイタリア人ジャーナリスト

 赤シャツ最後の日のラーチャダムリ通り。南側のシーロム交差点と東側のルムピニー公園の両面から国軍の銃撃を受け、赤シャツは一気に後退サーラシン通りとの三差路にしばらくとどまっていた。

 誰もがシーロム交差点とルムピニー公園に展開する兵士に気を取られている。そのとき後方、すなわち北側の赤シャツが集会の舞台を設置しているラーチャプラソン交差点の方から、数回の爆発音が伝わってきた。赤シャツの1人が、
「誰だ! 後ろで爆竹を鳴らすバカは!」
と怒るが、
「オレたちじゃねえ、軍が後ろからも来ている」
と返す声。誰もが把握していなかったが、兵士たちはこのときすでに西側の競馬場、ロイヤル・バンコク・スポーツクラブに迫っていた。

 午前11時前、しばらく収まっていた兵士からの発砲が再開される。赤シャツは、サーラシン通りの三差路からBTS(スカイトレイン)ラーチャダムリ駅辺りまで後退を余儀なくされた。

 皆に合わせて、身を屈めて移動。どこから飛んでくるか分からない弾から逃げる。ラーチャプラソン交差点に向かって北上していると突然、ゴム弾が左から飛んできて目の前を横切り、右手のテントに当たって跳ねた。赤シャツの1人が、「後ろにも軍がいる」と言っていたのはこのことだ。ロイヤル・バンコク・スポーツクラブ方面から撃ってきている。

 このときはまだ生きていたファビオ氏。この写真は日本よりむしろ、イタリアや英国などの欧米諸国で広く取り扱われた。

 南、東、西と、すでに三方を囲まれた状態。慌てて引き返そうと後ろを振り向いた瞬間、数メートル欧米人が倒れた。彼が死亡したイタリア人カメラマンのファビオ・ポレンギ氏だと知ったのはそれから数時間後、そのときは倒れた彼を撮るのが先で、どう行動したのかよく覚えていない。

 覚えていたのは、1人のタイ人が助けようとして脚を引っ張っており、
「手伝え!」
と、こちらを怒鳴り付けたこと。写真を撮り終えて彼の方に向かい、左腕をつかんで引っ張る。欧米人だからもともと体がでかい。それでなくとも重いのに、腕が血でヌルヌルしていて引っ張れない。

 目が開きっ放しで死んでいると思ったが、そのうち苦しそうなうめき声を上げた。まだ生きている。2人か3人、助けに来た者がいたが、銃声が鳴った瞬間どこかに逃げていってしまった。彼の体を引っ張り、上半身がようやく起き上がったが、ヌルヌルの血で手を滑らせてしまい、彼の体がドサッと倒れる。今度は自分が「誰か手伝え!」と叫んだ。

 そのうち何人かが助けにやって来て、ファビオ氏はバイクに乗せられ、ラーチャプラソン交差点の警察病院に運び込まれた。死亡が確認されたのは搬送先だ。

 後に、このとき撮られた動画を確認してみたら、ほんの数歩後ろで倒れたと思っていたのが、実際には7~8メートル離れていた。人間の記憶というものは全く当てにならない。ファビオ氏の体を引っ張っていた自分が写真に撮られ、それがフランスの雑誌「パリマッチ」で発表されている。自分が撮った写真が載ったのではない、赤いシャツに黄色のメットを被った自分が載ったのだ。

 ファビオ氏を最初に助けていたタイ人は、そのときは記者かと思っていたが、後に記者でも赤シャツでもないことが判明した。このタイ人はカメラに手を触れているが、そのカメラが行方不明となってファビオ氏の最後の一枚が行方不明となり、未だに見つかっていない。ファビオ氏の妹であり、スタジオカメラマンのイザベラ氏が後に来タイ。彼女とはその後、何度となく会うことになった。
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搬送先の病院で息を引き取ったファビオ

最後まで残っていたのは女たち

  BTS(スカイトレイン)ラーチャダムリ駅辺りで道路に座り込む。国軍の発砲で穴が開いたらしい貯水槽から、水がザアザアと漏れて周辺が水浸しになっている。国軍が撃ってくるのかこないのか分からず、周辺では銃声が鳴り響いているが、ラーチャダムリ駅辺りはいたって平穏だった。赤シャツのメンバーが差し入れの弁当を食べていたり、疲れて寝そべっていたりしていた。

 それを見ながら先ほどのファビオ氏を思い返し、出勤できずに自宅待機している編集に電話をしてみる。
「イタリア人が死んだとニュースが流れている」。
そのときはじめて彼がイタリア人だと知った。撃たれて倒れたとき、周辺のタイ人はニュージーランド人などと勝手なことを言っていた。この1週間で何人死んでいく者を見てきただろうか。何のために取材しているか分からなくなり、家に帰りたくなってきた。

 ラーチャプラソン交差点の舞台に行ってみる。リーダーのナタウットとチャトゥポンが上がっていた。チャトゥポンは目を赤くしながら、
「我々の仲間が次々と倒れていく」
とぼそっと言った。お前が死なせているんだ、と思う。ナタウットは支持者に向けて赤シャツの歌を歌い出し、目を潤ませる。前年の騒乱のときも、ナタウットは目を潤ませながら赤シャツの歌を歌って解散を宣言。「ナタウットが泣いたらさようなら」なのだ。

 赤シャツ騒ぎの最後の1週間は、国軍に赤シャツリーダー狙撃が噂されていた。実際にカッティヤが倒れている。舞台周辺のビル屋上にスナイパーが潜んでいるらしいということで、何人もの付き人がナタウットを囲んでいて、何とも情けない。
「軍が突入してきたら真っ先に逃げればいいけど、スナイパーはちょっと怖いかな」
と言いながらも、舞台のわきで平然とジュースを売っていた女の子がいた。ナタウットよりよっぽど勇敢に見えた。

 いったん舞台を離れる。そこにネパールに詳しいカメラマンがいた。陸軍側から燃えたバリケードを越えて赤シャツ側にやって来たものだから、全身ススで真っ黒。舞台を警備している赤シャツの若者に、不審者として止められていた。

 舞台から数十メートル離れた道路わきに座り、炊き出しの弁当をもらって食べる。「もう軍に包囲されたかな。ここから出られるかな。出られるのだったらさっさと家に帰ろう」などと思っていたら、
「逃げろ! 逃げろ!」
と周囲が騒がしくなりはじめた。周辺の赤シャツメンバーが荷物をまとめて走り出す。小さな女の子を連れた母親が、
「(ナタウットやチャトゥポンの)リーダーが逃げろと言っていないわよ。逃げていいの?」
と相手もなく尋ねる。通りがかりの女性が
「あの人たちはみんなを置き去りして逃げたわよ」
と怒鳴り返す。よく見ると、最後まで残っていたのは女たち。男どもはいち早くどこかに逃げ去り、数人しかいない。

 赤シャツリーダーはメソメソ泣いた後、解散を宣言。国軍の突入を恐れて自ら舞台裏のタイ警察本部に出頭したらしい。舞台前に引き返すと、たった1人のオバサンが赤シャツの旗を持って座っている以外、全員が逃げ去っていた。イスやゴザがメチャクチャに散らかっている。オバサンを絡めたその光景を撮っていたら、
「あんた、早く逃げなさい」
とオバサンがつぶやいた。現場で居合わせた日本人カメラマンが、
「幹部が解散を宣言した途端、暴徒化したんです」
と教えてくれた。
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最後まで居残った女性

デパートに放火、誰もが暴徒に

 ラーチャプラソン交差点の集会場の横、ショッピングセンターのセントラルワールドに入居するデパート「ZEN」の入り口に火が付けられた。何人もの若者が手際よく火が付きやすいガラクタを集めている様子を見ていると、赤シャツのリーダーたちは後に否定していたが、誰かの指示によるものであることは明らかだった。古タイヤを用意してあるところを見ると、指示は何日も前に出ていたように思われる。ラーチャプラソン交差点一帯の地主は王室といわれる。そこの建物に火を付けるというのはタクシンの挑戦でしかない、といわれた。

 燃える古タイヤにガスボンベが放り込まれた。
「爆発するから逃げろ!」
という、居合わせた記者の声に思わず逃げ出すが、
「おい、コックからガスが吹き出るだけで爆発しないだろ」
という声が聞こえてきて、思わず力が抜ける。走るのを止めて座り込んでしまった。

 誰もがみな暴徒と化していた。写真に撮ろうとすると暴力的に邪魔され、身の危険さえ感じた。これまでは、国軍側で取材すれば国軍が仲間、赤シャツ側で取材すれば赤シャツが仲間だったが、このときだけは誰もが敵に見えた。

 セントラルワールド横に仏教寺院が建つ。
「女性・子供・年寄りは(仏教寺院の)ワット・パトゥムワナラームに避難するように」
と、平和維持本部(CRES)がラーチャプラソン交差点界隈にとどまる者の携帯電話端末に対して発した警告文を思い出す。ただの暴徒を取材するのに疲れて寺院に行ってみると、数百人が身を寄せていた。

が、異様に殺気立っている。ここにはいたくない、と思うほどだった。赤シャツの女性が近づいてきて、
「ここにいれば大丈夫」
と話していたが案の定、その日の夜に10人近くが射殺されて「虐殺」騒ぎとなった。寺院の前をBTS(スカイトレイン)が走っている。その高架線路を伝ってやってきた陸軍兵士が発砲したのか、それとも単なる赤シャッツの仲間割れか。病人やけが人を手当していた看護師を見かけたが、殺された10人の中に看護師もいたという。彼女だったのだろうか。

 寺院の向かいはタイ警察本部。寺院の境内などにはいたくなく、警察本部に入れないかと思ったのだが、赤シャツが逃げ込んでこないよう門をしっかり閉ざしている。これはダメだと諦めていたら、30分ほどして一部の人間に門を開放した。メディア関係者を保護するためらしい。すばやく門をくぐる。「寺院を撮るべきだ」と豪語していたネパールに詳しいカメラマンはすでに警察本部の敷地内にいた。
「あそこ、やばそう」。
やっぱり身の危険を感じたのだ。

 警察本部の敷地に入るなり、今度は銃の乱射音やグレネードランチャーの着弾音が聞こえはじめた。自分が立っているのはだだっ広い駐車場の真ん中で、身を寄せる建物がない。そこにいた警官と一緒に地面を這いつくばる。なかなか一息つけないのだ。隣の警官が這いつくばりながら、ぼそって話しかけてきた。
「スプリンクラーの水が切れたみたいだ。煙が立ち始めた」。
セントラルワールドの方を見ると、黒い煙がもくもくと上がっている。その光景を見て、すごく寂しくなった。
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最後はいつも泣き出すナタウット

赤シャツ最後の日

  タイ警察本部の駐車場。銃声が絶えず、こちらに飛んできているのか、どこかほかで撃ち合っているのかが分からない。周囲にいる日本人はネパールに詳しいカメラマンともう1人、日本で最多の発行部数を誇る新聞のバンコク支局のカメラマン。繰り返しとなるが、日本の大手メディアでここまで入ってきて取材を続けているのは彼だけだ。

 ここで延々と這いつくばっていても埒が明かない。バンコク支局のカメラマンは、
「取り敢えず、建物の陰まで行きましょう」
と言い、立ち上がって走り出した。弾を避けるという意味だろうか、ジグザグに走っている。一緒に這いつくばっている何人もの警官から、
「おお!」という歓声。それほどまでに大げさだった。その姿を見て、ネパールに詳しいカメラマンもダッシュで建物の方に逃げていった。ジグザグの走りは撮れなかったが、まっすぐのダッシュは(撮っても使い道がないのだが取り敢えず)撮れた。

 赤シャツ占拠地を通らずに抜け出す出口は1カ所のみ。その出口は、陸軍と赤シャツの緩衝地帯のど真ん中にある。出口から出ることはできるが、どちらに向かうか。陸軍兵士が銃をこちらに向けているバリケードも、赤シャツの古タイヤを積むバリケードも、どちらに向かうにも相当な勇気がいた。

 「ここで夜を明かすか、無理して抜け出すか」
と隣の警官が笑って話しかけてきた。近くに立っているどこかの局のテレビクルーは、
「僕は本部建物のロビーで3日も野宿状態だ」。
とてもじゃないが、そんな気力はない。ネパールに詳しいカメラマンが、
「寺に行こう」
と言い出したが、それだけは嫌だった。

 そこに電気工事の作業車が登場。バンコク支局のカメラマンが機転を利かせる。車を運転している電気工事士に
「荷台に乗っけてくれ」
と頼み込んでいる。赤シャツが何やらしでかして警察本部内の電気が切れたので、電力会社の職員が直しに来たようだった。
「乗せてもらえますよ!」
ネパールに詳しいカメラマンと3人で荷台に潜り込む。

 車は出口を出て、脱出に赤シャツのバリケードへの方向を選ぶ。といっても、赤シャツのバリケードは出口のすぐ隣で、陸軍のバリケードはけっこう遠いのだが、陸軍に蹴散らされた赤シャツが腹いせに車を攻撃しにやって来そうで怖かった。バリケードのわきを通り過ぎるときは身を伏せていたので良く見えなかったが、赤シャツは文字どおり蹴散らされてほとんど無人だったようだ。

 電気工事の作業車は安全を期して遥か遠くのラマ6世通りの向こうまで走ってくれた。赤シャツ陣地から逃れてきた人たちが集まっている。礼を言って車を下りると何やら、ドリンク剤や気付け薬などを配る人たちにたいそうもてなされた。赤シャツ陣地からの凱旋帰国のような気分になる。陸軍はその時点ではまだ、赤シャツの抵抗で足止めをくらってラーチャプラソン交差点にたどりつけていないようだった。

 ネパールに詳しいカメラマンとバンコク支局のカメラマンは、他の場所に取材しに行くという。テレビ局の3チャンネルが放火に遭ったという話だった。バンコク都内はそこらじゅうで停電、赤シャツが送電設備を片っ端から破壊しているのだ。その辺りの手際の良さは、誰かからの事前の指示を連想させる。ネパールに詳しいカメラマンが泊まっているホテルも、我が社の事務所も、自宅待機している我が社の編集担当のアパート一帯も、在タイ日本人が集中するスクムビット界隈もどこもが停電していた。

 一緒に取材に行く元気などない。自宅に帰りたかった。電気工事の作業車が停まってくれた場所には、役所が用意した避難用バスが待機していた。地方に避難する国民のために北バスターミナルに向かうとことで、方向的に自宅に帰りやすかった。

 バスに乗ると、タイ人の若い女性に話しかけられる。今回の赤シャツ暴動をどう捉えるかを、みんなに聞いて回っているのだという。自分は日本人であることを告げ、「理由はどうであれ、一般国民が武器を持って撃ちまくるのは、国が国として成り立っていないからだが、この国は貴方たちの国なのだから、貴方自信が率先して国造りに携わっていかなければならない」と答えておいた。

 バスが北バスターミナルに着く。バイタクを乗り継いでようやく自宅に着く。都心ではないのでさすがに停電はなかった。玄関のドアを開けると、子どもがPCでゲームを楽しんでいる姿が目に入ってくる。こちらを振り返ることなく、
「お帰り」。
子どもにとって、日本人学校が臨時休校しているだけでそれ以外は普段どおりの生活。避難用バスに乗ったほんの1時間前までの世界は何だったのだろう。タイに暮らしていると、このようなギャップにいつも惑わされ、いつまで経っても慣れない。子どもはちらっとこちらを見て、さほど興味なさそうに、
「血がついているよ。どうしたの」
と聞いてきて、答えを待つことなくゲームに戻る。腕や脚には、ファビオ氏の血が付いたままだった。

 この日を最後に「赤シャツ暴動」は終わるが、赤シャツはその後も幹線道路を通行止めにした集会をチラホラと続け、バンコク都民からのひんしゅくを買っていた。「祭りが終わってもまだ笛を吹いている」連中だった。

 この翌日だったか、日本で第一人者と評される報道カメラマンが今回の赤シャツ暴動を取材した日本人を集めてパーティーを開いた。ネパールに詳しいカメラマンはいそいそと出掛けていったが、こちらはパーティーに出ていると夜間外出禁止令の時刻までに帰宅できそうになく、顔を出さなかった。何人参加したか分からないが、氏もその辺りのツメが甘いのだ。ネパールに詳しいカメラマンは、
「『危ない真似などせずもっと慎重に取材しろ』って、若い連中に説教してた。自分が臆病ってバレてるのを知ってるんだよ」
と、食事をごちそうしてもらったはずなのにバカにしていた。赤シャツ暴動が終わっても、その後数日は夜間外出禁止令が続いていた。